23

23歳だった。誕生日だった。その日は冷たく光る雨が降って、僕は前日から遠い海の名前のお酒を飲んでいた。CDプレーヤーの冷静な緑色のデジタル文字が00:00を示し、僕は自分の年齢が変わったと知った。00:01に間宮から「誕生日おめでとう。これからもよろしくね」とメールが来た。僕はオーディオテクニカの分厚いヘッドホンを外した。ニルヴァーナの鋭いギターリフの隙間に静寂が入り込んできて、それはすぐにエアコンのざーっという低い音に変わった。僕は「ありがとう」と返信を送ってケータイの電源を切った。それからガラスのコップに入れた安いワインで眠剤を飲んだ。何錠だったかは数えなかったけれど、多分8,9錠くらいだったんじゃないかと思う。後ろめたさが喉を過ぎていって胃に達する頃には自己肯定に変わっている。やわらかい。身体は海に近くなる。
遠のいていった記憶が実は僕自身だったのではないかと思う。詭弁。生きることは過程の推移に過ぎないのかな。それにしても。長く生きすぎたと思った。20歳になったとき、僕は確かにこれから生きるのだ、何故なら今まで自分はまともには生きてこられなかったのだから、と思っていた。しかしそれから三年間で積み上げてきたもの、そして今ここに残っているものは、ざらついて青ざめた自分の顔と、荒れた喉、常に痛みで存在感を発し続けている胃、それから傷の上に傷を重ねられてケロイド化した左腕だけだ。時間は積み重なることを知らない。しかしそれは決して新しくなることはない。始まった時から、全ては終わりを目指している。
僕は再びヘッドホンを耳に当てる。エイフェックス・ツインの暴力的に優しい、壊れた心拍音のようなビートが頭の中いっぱいに拡がっていく。全ては終わっている。もう十代のうちに終わっている。それなのに僕は生きている。僕は人生に飽きている。ワインを注ぎ足す。これから車を駆って公道を130キロぐらいで走って、それで死刑になったらいいなと思う。全ては終わっている。騒音に似た音がずっとしている。

一時期、僕は詩を書いていたことがある。それは慰めと言うよりは……、例えば彼らは、何をして生きているのだろう、何を見ているのだろう、それから間宮は? 彼女は詩を書いている、その場所に僕は行きたかった。どうしようもなく気持ちよくなるときがあった。僕はただ、終わりの音楽がいつまでもいつまでも鳴り響いている場所、そこに生きたかった。何日か、間宮と一緒に家を出て、お金が無くなるぎりぎりまで遠くに行ってみたことがある。そうして、多分どんなひとの言葉もあらゆるものがフィルターにかけられて「過去」という場所から響いてくるように聞こえる、銀色の山あいの道に二人車を止めて、目眩のするような、鳥や虫たちしか降りていけないような谷(その底には川のようなものが流れていた。でもそれは水ではなくて、そこに降りていけるような言葉を僕たちは持たなかったのでそれを暫定的に川と呼んだ。僕らは草の生えた地面に寝ころんで、シャツの背中が砂粒に濡れるのも気にせずに手を繋いだ)を見下ろす場所で、「お互いにこれが最後だとしたら」とどちらともなく呟いて(いや、二人も何も言わなかったのだ)、それからキスみたいなものをした。お互い、感じていたのは繋がりよりも、隙間だった。何の音楽もなかった。

22歳だった昨日、僕は綾嶺さんと彼女の部屋でお酒を飲みながら話した。彼女は誰も来るつもりじゃなかったから、と言って、机の上の本を取り敢えず、危なっかしく胸の前に抱えて部屋の隅に持って行った。その本の山は、雨の多い季節を待っている、足のない虫たちのように、間からは紙片が飛び出していたり、表紙の無い本があったりした。でも僕を呼んだのは彼女なのだ。彼女の部屋では、常に先を先を急いでいるようによろけながらも(合わない靴を履いているので)全速力で行き先も分からず一心不乱に走っているようなアークティック・モンキーズの‘テディー・ピッカー’が部屋の空気を突き抜けるように流れていた。綾嶺さんはふたこと目には「死にたい」と言う。それが冗談では無いことを僕は知っている。彼女は27歳で切実に死にたがっている。何の仕事もしていなくて、親のお金で(それもやっとせびって満たしているようなものなのだ)それまでを生きてきていた。申し訳ない申し訳ないといつも彼女は言う。だから僕は淡い禁酒中の彼女に4本目のビールを勧めた。それから彼女は「みんな死んでしまえ」まず私から、いや、みんなだ、みんな、みんなみんなみんな! と言った。僕は窓を開けた、冷たい風が吹き込んで、見える星、あ、あそこは熱いな、ここは冷たいなとても、と僕は思った。綾嶺さんは「間宮ちゃんはどうよ。最近あなた達会ってる? それからセックスしてる?」と言った。僕は「会ってます。セックスはしていません」と言った。それから「セックスって何ですかね?」と言った。彼女は「セックスは恥ずかしいものだよ、とても」と言った。それから僕は綾嶺さんとセックスをしなかった。ただ、ぺたぺた触れあって、お酒を飲んだ。「今私は、あなたの生身に触れている。あなたは私の乳房に触れた。服越しなのでした。それはセックスではないのでした。過去形でね。でも何なんだろうね」と言った。分からなかったので、僕は持ってきていたワインを開けた。飲むつもりは無かったのだけど、間が保たなかったのだ。彼女はボタンを一番上まできちんと留めて、それから洗面所で髪も整えてきて、それから「やっぱりいいや」と言って、背の低いテーブル越しに一瞬同じ瞬間に笑い合い、彼女は髪をまとめて頭の上でくくった。それから彼女は「あんたは私をずっと好きでいてくれると約束してくれる?」と言った。僕は「前提として僕は綾嶺さんが好きなのでしょうか?」と言った。
「好きじゃないの?」
「好きですよ。そりゃ」
「じゃ、何でそんなこと言うのよ」
「好きって何か分からないからです」
「あんたは私が好きじゃないの?」
「好きですよ」
「ずっとね」
「ずっとです」
「嘘ね」
「嘘じゃありません」
「そう。じゃああんたはきっと馬鹿だ」
僕は、嘘じゃありません、と口の中で言ったけど本当は嘘だったのだけれど、そう言ったら、僕は泣いてしまうし、彼女は死んでしまうのかも知れなかった。綾嶺さんは横を向いて肩に付いた何かを弄っていた。それから歌うように、私は、どうせ、あー、あれだ、あれ、何だろうな、あー、わからない…、と呟き続けた。endless, endless, endless...

帰ってきて、まだ酔いの醒めない頭の焦点をセンター試験の過去問題集に並んだ、不可思議な英語の文字列に合わせようと思ったけれど、それは英語でもない何かにしかならなかった。僕は諦めてベッドに潜り込んだ。生活音が聞こえた。それは僕の不安が具体的になったような音だった。僕は生きるのかも知れないと思う。生きるのかも知れない。怖い。大学に行ったらもっともっと怖いだろう。僕はこれ以上の勉強はもう勘弁だと思っていた。けれども僕はひとのいる場所に行きたかった。僕は18歳のときに一度大学に入っていて、それは一年でやめた。その頃には僕は酷い鬱病で、ただ薬とワインと、間宮へ送る「死にたい」と間宮からの「死ぬなよ。死んじゃ嫌だよ」で、生きていた。たまに「じゃあ死ねよ」と返ってきて、そう、そのあとは三ヶ月くらいケータイの電源を切っていたんだ。そうだった、僕は三年間ずっと間宮にどれだけのお礼も、何にもしていなかった。僕は当たり前のように生き残ってしまって、間宮はいつもいつものように僕に笑いかけてくれた。
一年前に僕はそれまでは休学扱いだった大学を正式に止めることにした。それはひどくあっけなく受理された。誰も引き留めたりしなかった。誰も僕に何かをしろと言わなかった。誰も彼もが僕にただ生きていればいい、そうすれば何かが出来るかも知れないしと言った。僕は何も出来ないかも知れないと思ったけれど、取り敢えずは寝て過ごすことにした。ただただ何もかもが急速に老いていった。僕は毎日一度は死のうと思った。

誕生日の朝、雨は雪に変わり、昼頃になって煙草が切れかけているときに間宮が突然家にやってきた。「これ、プレゼント」と言って手渡されたのは一カートンのラッキー・ストライクと缶入りのピースだった。缶を開けると、実在しない森のような香りがした。彼女は体型にぴったりと合った、冬の温度がその周りだけ少し厳しさを失うような感じの淡いピンク色のセーターを着て、もこっとした感じのブーツの丈を短くしたような合成皮革の靴を履いていた。珍しく赤いフレームの眼鏡をかけていて、それが短めの髪にとても合っていた。玄関で、丁寧に紐を解きながら、
「どう、小説は書いている?」
と何気なく言った。
僕は、
「書けないんだ」
と言って、それから先は続かなかった。外から入ってきた空気が、僕の胸の中の空気と排斥し合うようで、軽い立ちくらみを感じた。
彼女は「そう。でも、時間はたくさん、たくさんあると思うよ。それにね、書けないからと言って私は亜紀を嫌いになったりしないから心配ないんだよ」と言った。
彼女が言うとまるで本当みたいに思えた。でもきっと本当のことのひとつひとつは見つめてしまってはならないし、留めて置くことも出来ないんだ。
僕は「ありがとう」と言った。
彼女は「どういたしまして」と言ってから、「もうひとつ、本当はこっちがプレゼント」と言って、僕に小さなリボンの付いた紙袋をそっと手渡した。柔らかいものが入っていた。
「それはマフラーなの。ありきたりでごめんね。私、下手だから、半分くらいは、ううん、もっとかもしれない、妹が編んだの」
僕は袋を開けた。それはクリーム色で、少し長めで、とても丁寧に編まれていた。僕はそれを折りたたみ直して、頬に当ててみた。柔らかく、それは熱いくらいの感触で、僕はそれを鼻に当てた。とてもいい匂いがした。
「ねえ、僕は君にどれくらい感謝しなくちゃいけないんだろう。ありがとう、すごくすごく嬉しい」
彼女はやっと立ち上がって、「伝わらないかもしれないけどね」と言って僕の身体に腕を回した。それから耳元で、
「嬉しいのはずっとずっと私の方なんだよ」
と呟いた。

僕の部屋にはいると、まず彼女は戸口のところで立ち止まって、「うわぁ、前よりも本増えてるね」と言った。
僕は「読んでないから」と言って、台所からコップを持ってきた。炭酸入りの紅茶も冷蔵庫から出してきた。
間宮は僕の机の上に拡げてあった、大学入試問題の数学のテキストをぱらぱらとめくっていた。本の方に目は向けたままで「やっぱり大学には行くの?」と言った。
僕は紅茶を均等に注ぎながら、
「うん。分からないけれど、今のところ、もし僕が生きるのだとしたら、語学の勉強が合っていると思うから」
と言った。半分くらいは嘘だった。僕は薬とお酒を飲んで、音楽を聴いているのが一番幸せだった。幸せというより、他の何一つしたいことがなかった。それから煙草を吸いながら、僕は一生がずっと今日なら、死ぬのと同じくらい生きているのもいいと思えた。だから大学になんか行きたくなかった。でも、生きていくための方便として、大学にまた行くくらいしか、他には思いつかなかったのだ。まず、両親がいまの生活を続けることを許してくれるだろうとは思わなかったし、バイトで生活を制限されるくらいなら、外国語の辞書でもめくっていた方がいい、みたいな完全な消去法だった。
「それに、バンドを作るのは、ここでは無理だから」
間宮はコップを取って、唇の先に紅茶をちょっと付けるようにして「おいしいね」と言った。
「ふーん、亜紀がバンドを作りたいなんてね」
と寂しそうに笑って。彼女は壁に立て掛けたレスポールを取って、ベッドに座って弾く真似をした。「たった六弦で音楽を作れるなんて、私には信じられないな。アキには特別な才能があるんだよ。ギターを弾くのが楽しいってだけで」
と念押しするようにはっきりとした口調で言った。
「それは買い被りすぎだよ。いくらなんでも。ギターなんて誰でも弾ける」
僕は紅茶を、喉を鳴らして飲んだ。
間宮はふふと笑って、ギターの指板をばらばらな手つきで押さえて、右手でじゃらりと鳴らした。孵ったばかりの小鳥が呻くような音が出て「これでも?」と笑った。
「それは」僕は言って、間宮からギターを受け取って、「KID A」のリフを弾いた。間宮は「気持ちいい音」と言って、コップを額に当てて、それからベッドに仰向けになった。
「この曲はジョン・メイヤーが弾いていたんだけれど、弦はたった二本しか使っていないんだよ」
と僕は説明した。
間宮は起き上がって、「違うんだよ」と言った。
「あたしはね。ギターを見てると、指を這わせるよりも叩き壊したくなるんだ」
「それは…」
というのをさえぎって彼女は、
「ううん。わかってる。それはわかってるよ。でも亜紀はギタリストで、私は本質的にギタリストじゃないのよ。それはどうしても」
僕にはそうは思えなかった。それは単に慣れの問題だと言おうとした。けれど、何かそれを言いたくないような感情があって、僕は黙っていた。それにギターを叩き壊したいのは、本当は僕だって同じなのだ。

その日の夜、僕たちは二人で綾嶺さんの家に行った。彼女は昨日のままの格好でやっとのことで戸口まで這ってきたようだった。
「入りなよ」と言った。
「おじゃまします」と言って間宮はさっさと入っていった。僕が靴を脱ごうとしていると、綾嶺さんが僕の足にしがみついてきたので倒れそうになって、彼女の肩に軽く手をついてしまった。綾嶺さんの身体は、そのまま壊れてしまいそうに力なく床に倒れた。僕は壁に危うくもう一方の手を付けてバランスを取った。
「ごめんね」僕が口を開く前に綾嶺さんが言った。
「私なんかのために」
僕は綾嶺さんを壁に凭せ掛けてから、靴を脱いだ。間宮が居間のドアから顔を出して、
「綾嶺ちゃん飲み過ぎだよ。いるだけで酔うよ、この部屋」と言った。
それから、くたっとしている綾嶺さんを見て、僕の方へ歩いてきて
「何やってんの」と言った。それから小声でわざとらしく「おお、このままほっといたら綾嶺ちゃん死にそうだね」
「さあね」
「死んだらあたしたち捕まるかな」
「さあね」
「あのさ」綾嶺さんが言った。
「丸聞こえなんだけど」
間宮は「知ってる」と言って、くすくす笑った。
綾嶺さんは自力で立ち上がって、立ち上がるとまるで全然お酒なんか飲んでないみたいにすたすたと居間の方へ歩いていった。
綾嶺さんの部屋は昨日よりもずっと乱雑としていた。本棚に並んでいた百冊ほどの本が、全て床に払い落とされていた。その上に飲みかけのワインのボトルが横たわっていて、ファッション雑誌の表紙の女の子の顔が半分赤く染まり波打っていた。何冊かはもう永遠のアルコール中毒の最中にいた。窓が開いていて、カーテンが何か宿命的な陰鬱を訴えるように重たげに揺れていた。スピーカーから、何かうめき声のような、ざらざらした音が漏れていた。

「みんな捨ててしまおうと思ってね」
綾嶺さんは床に置かれた赤い座椅子に崩れるように座って言った。それから二、三回咳をして、「煙草、吸ってもいい?」と言った。
僕は、自分のライターで綾嶺さんのくわえたマールボロに火を着けてあげた。
彼女は煙を吸ってから吐くのに、時間がかかった。
「雨が降っているのね」
僕はこれが部屋にかかっているのが何の音楽なのか聞こうとしたけれど、間宮がスピーカーに付いたつまみを回すと、うめき声は、遠くから聞こえてくる鳥の声に変わった。

「私は昔、宇宙飛行士になろうとしていたんだ。十年くらいまではね、結構本気で思っていたんだよ。成績も悪くなかったし、ううん、とても良かったと言ってもいい、体力にも自信があった。頭がやられる前まではね。私は、空を見上げて、星座の名前を覚えるのが何より嫌いだった。ただ、あそこには空間と光だけがあるんだ。星座なんてのは、あくまで地上にへばりついた人間達の、局地的な土臭いお遊びみたいなものだ。地球なんて、本当にちっぽけで、そこにしがみついている人間がぶざまだと思った。私はそれを見下ろしたかったんだな、見上げるんじゃなくて、みんなみんな見下ろしてしまいたかった。私は何も知ろうとしなかった。結局、地上の、小さなひとつひとつのことを、ひとは存外に大切にしていて、宇宙までも言葉に還元してしまおう、なんていう、でもそのいじましい努力を、知らなければ、私はひとのなかでは生きていけない、そういう当たり前のことを、私は知らなかった。みんな、とても現実的にアレンジされた夢の中に生きているのね。本当に夢を見られるのは限られた人間だけだし、私にはその資格があると思った。私は社会がいかに馬鹿馬鹿しいかの受け売りをしたかった訳じゃないの。間宮は分かってるだろうけれど、アキトくんは知らないと思う。私ってね、まともじゃないの。大学に入った時には正直絶望しきっていたわ。私が他人の感情、というか生活かな、にはほとんど不干渉であるのに、彼らは私を避けていた。多分、恐れてさえいた。私はね、現実的だし、自己中心的であることに自覚がありすぎたのよ。それでも純粋な好意があることは知っていた。ケータイにもほとんど用がないくらい、私には友だちがいなかった。せいぜい、仲のいいふりをするか、独りでもまだ気高くいられればよかったんだけどね。でも私は独りでいることしか出来ない癖に、独りでいることに耐えられない人間だった。彼らは、ひとに何らかの価値を求めているの。アキトくんだっていくらかはそうだよ。ときどきは私に出来ないこと、表情、とかを求めたりもするでしょう? でも、あなたは私が私でいることを求めていてくれる。痛いくらいに。きっとあなたは私がおばあさんになっても友だちでいてくれるわね。そういうのって嬉しいと言いたいけれど、怖いな。甘えてしまいそうなのよ……」

眠ってしまった綾嶺さんを見ながら、僕たちはしばらく大陸風のような、ざわめきに耳を傾けていた。そのうちに、風は湿っぽくなり、段々水の流れのようになっていった。その流れは耳の中で落ち着いた静けさを作りだした。
「なんだか泣きたくなるね」
間宮は言った。透明な声で。
昼頃また来ます、と書き置いて、僕たちは外に出た。

夜と、月

あちこちに報知器が置かれていて、
街では大きな物語が流れている。

私はここにいないのに、
死体は道路に転がっていて、
それを避けて歩く限り私は存在しないと、
標識に書かれていて、
私はメモリスティックを口に咥えて
誰も読まないラノベ小説を運んでいるみたいだ、

(つまり、私は存在しない、)

死体の、無駄使いですよそんなのは、
つまり踵は、ヒールは、
死体を避けて渡る為に発達したもので、

紛い物に対するハイテンションみたいに、
発達した空気を肺腑に含みつつ、
はい、青い方どうぞ、って、
底知れない聖堂みたいな中を連れ立たれていって、
眩しすぎて、もはや星みたいな歌しか出ないのに、
浮く、

もはや街ではイアン・カーティスしか歌っていない、
迷いが背中に付いてくる
もはや優しさは適用されない、
社会科の見学みたいだ、
目を瞑るとベスト盤みたいだ、
路は続いていて、
月は照らない、
私はいない。

川辺

心の底を、流れる川で、
昨日は指を切ってあげた。

山は、あたたかいが、黒い。
しびれるような懐かしさは、ここでは
青い、青くて、くるまっている。

ギターは静かな楽器です、が
やや胴などは確かすぎるので、
譜面台には鉛筆で愛情の、
こぼれた文字が書き連ねられて。

流れる川の、すぐそばで、
私はなかなか歌い出さない。
あなたも物を言わない。
ギターもやや確かすぎるので。

弦を撫でると指を切ってあげた。

心の底の指先で、
血は、赤く、黒く、
溜め息のように静かに鳴った。

愛着心の余りある感情に、時計の枝を噛む、
キーボードは、固くて、かちゃかちゃしているのがいいです、
待って欲しい!、って、ビーカーの赤い目盛りに声を掛けるみたいに、
舐めていく感情に落とし舟の帆が立っていくし、
背中合わせに夕陽の魔法を詠み合っていれば、
私たちは物質という感情の副産物なんだって気が付くし、

みんな本質的には夜に住んでいるんだよ、海の底に、
愛情が私の夜に住み着けるかなんて分からないけれど、
理由なんて無く、泣く、浴槽の中にしかなくて、
(愛は技術じゃないよ)愛は死だよ、
死ぬときになれば分かるよ、雨の下で、おふとんのなかで
ヘッドホンの中で、私は、赤い屋根の下で、
ライフルをマニュアル照準モードにして、
死ぬときになれば分かるよ、って
空の果てへ、最後の冠水栓を、私は
今から撃ち放してやるつもりでいます、…

別離(朝)

バイバイ、夢の人たち、
私の呼吸器は舟のように傾いでいる、
稀に対応する機首があっても、
理性だけが切れ切れに垂直で、

歴程に鳴る日ずく毎、
夢に似し、且つはまた、
柔軟な寝息に、
箱舟の薹が立つ、囲炉裏の色に、

バイバイ、聞こえない舍密たち、
喉奥で故郷が鳴る、
昼顔の色に、青色に、
気管は透る、薄明の音、

秧鶏の色は、策分は、
定期の果てに、揺りませぬ、

バイバイ、バイバイ、雨傘の音、
腕をくぐりて、お休みなされ……

(刹那の系累、
 青く、青く、枝垂れ行く……)

氷が水に変わる場所

1.僕
理沙は冷たい拡がりを纏っているみたいだった。

関わり合わない限り人間同士は、いつまで経っても、別々の宇宙人としての、遠い、遠い隣人同士なのだと思う。一度人と深く関わり合う決心をしてしまったら、広漠な世界へと続くはずだった自分の部屋のドアは、個人的な誰かへと続く、生活のためのドアとなり、自分がそれまで漠然と所有していた宇宙、少なくとも身近な可能性としての宇宙という概念は、僕の中から意図的に放棄されてしまう。或いは、最初から無かったことになってしまう。
いや、違う。僕は対人用のドアを入念に作り上げて、自分に元からあったドアを塗り固めてしまったんだと思う。宇宙へと開くはずだったドアがあるとすれば、それは完全に消失したりしない。でも、長いこと自分が対人用のドアを使い続けているな、と感じると、僕は時々、自分がここにいないような、間違った人格を所有し続けているような気になってくる。そして、その居心地の悪さ自体を自己の属性として、何が何でも認識し、受け容れなければならないような気になってくる。居心地の悪さを抱いたままで、周囲を見渡せば、誰を見ても誰かのための取って置きの笑顔を永久に保存してしまっているかのように見える。誰もが、誰に本当の笑いを向けたらいいか分からず、全ての人に平等に向けられた笑みの下で、自己喪失の不安に怯えているみたいに見える。

僕は罪深い存在だ。

僕は僕の中に入り、宇宙に向かって自分を開く。理沙がいつもそうしているように。僕たちは、当たり前の宇宙にいて、目を瞑ったまま起きていて、会話している。そして会話の中で僕たちは、ここでしかないこの場所に存在している、と確かに感じられる。


僕は赤い物を身に着けるのが好きだ。自分の居場所を見失わずに済むから。

「歌の中に雲が降りてくるの、それを、ピン留めするように、ギターを弾くの」
理沙は言った。


卑屈さを感じない、高い、高い空。それは目を瞑った時にだけ、僕には見える。

緋彩は唇の端を少し歪めるようにして、上下の犬歯で軽く下唇を噛んでいた。血の気が抜けたようになっている唇の、そこだけが赤くなっていた。水のように聞こえる緋彩のギターの音は、時に雨のように、僕の鼓膜に降る。彼女の弾く音は、空間の色を分散させているみたいだった。
理沙は時々、明確に自分を緋彩であると認識する。彼女にとっての一番の願望は、自分の中で、自分ではない自分に出会い、そしてそれ自身になることだった。

彼女はいつも「何かが足りない」と言っていた。
彼女の憎悪は彼女自身に向けられていた。想像でしか汲むことの出来ない地下水を思い、彼女は焦り、激しい渇きを覚える。
彼女からは細かい磁石の混じった、冷たい水のような匂いがすると思った。でも僕はそのことを理沙に言わなかった。


理沙は紫色の唇に笑みを浮かべていた。暗鬱を示そうとする、いくらか作為的な愛想笑い。部屋には彼女以外は誰もいない。彼女は数日前から睡眠薬の備蓄を切らしていた。市販の鎮咳剤と、ネットで購入したアミノ酸サプリメントのボトルが机の上に置かれていた。音楽は彼女に恐怖をもたらした。音に浸るには、彼女は自分が無防備すぎると感じた。窓の外で鳥が鳴いている。その鳴き声が彼女には、まるで彼女を非難するような、細長い針で出来た音のように聞こえる。彼女はアミノ酸の白いカプセルを四錠手の平に取り、新聞写真みたいに灰色に見えるグラスの中の水で飲み干す。水とグラスの境目がほとんど分からない。それから鎮咳剤を、正確に十錠……いつの間に中身がこんなに減ったのだろうか?……飲む。薬はすぐに頭に回り始め、彼女は額の奥に、赤いような、鈍い痛みを覚える。
潰れた箱から、煙草を一本取り出して、口に咥える。そのまま、火を着けないで、身体を捻って、立てかけていたエレキギターを手に取り、ピックを持って、アンプの電源は入れずに、いくつかのコードを弾き始める。知らない内に彼女は『アンダー・ザ・ブリッジ』のリフを弾いていた。壊れてしまいそうなバランスの上で光を放っている曲だ、と彼女は思う。それから、彼女は『グレイス』を弾く。外で人の声がする。彼女はギターを、さっきよりは素早い動作でスタンドに置き、赤い金属製のライターで湿りかけた煙草に火を着け、それからヘッドホンを着ける。彼女は真剣な、悲しいような眼付きで煙越しの壁を眺める。
煙草の火を、半分くらいのところで丁寧にもみ消して、目を瞑る。しかしすぐに目を開き、口の片方だけで笑う。机の上の文庫本の角を意味もなく親指で撫で、それから水を一口飲む。「何が信じられる?」彼女は、自分でも殆ど意識していないのだろう、小さな声で呟く。


2.緋彩
「魅入られたみたいな顔して、まるで戦争でも起こるみたいじゃない?」
緋彩は僕に言った。
僕はテレキャスターを抱えたまま、右手の人差し指を軽く唇に当てて、しばらくの間放心していたらしい。弁解するように、
「透明な魚のことを考えていたんだ」
と言った。緋彩は「ふうん」と気が無さそうに応えた。僕は続けて、
「右目が左目の世界を見るんだ。左目が右目の世界を見てね。つまりその魚は体内を見ている訳なんだ。それにも関わらずちゃんと外の景色も見えている。でも魚は『これは僕の中だ』って思い込んでいるんだ。そういう、絶望的なこと」
と言った。緋彩は再度、「ふうん」と言った。僕は緋彩の方を一度見てから、また視線を壁に戻して、
「それで、その魚は歌を歌うんだ。ミとかラとか、緑色や赤色の声で。そうすると歌の行く先が絶え間なく魚の内面になるんだ。それでね、魚の歌を聴く人は、みんな魚の内面になってしまうんだよ。そういうことを考えてた。魚というのはギターのことなんだけど」
僕が言うと、緋彩は少し俯いて、小さく笑った。僕が言ったことに対して、というよりは、僕の真面目な口調に対して、という感じの笑いだった。彼女は少し身構えるように、両腕で身体を抱くようにして、
「たいへん。君のテレキャスター君が、窒息しないようにしないと」
と上目遣いになって言った。
僕は「そう、そうなんだ」と言いながら、また右手を唇に当てて、左手でギターのネックを軽く叩いた。月の裏側をノックするみたいな音がした。取り留めの無い何かが浮かびかけては消えていく。
「ねえ、こうも思うんだよ。一匹の魚は全ての魚なんだ。みんな透明なんだよ。僕たちはみんな空を飛ぶ島国みたいなものでね、それぞれの島がぐるぐるひとつの方向に飛びながら、巨大な一匹の魚をロープで引っ張っているんだ。ところが魚の方から見ると、ひとつひとつの島は小さな魚なんだ。全体として、群れとしては正しいんだよ。大きな魚から見た小さな魚の一匹が僕なんだけど、僕から見ると僕が中心にいるようにしか思えないんだ。僕はそのロープの方向を知りたいんだ。そう思った。正しい方向とは、歌なんだよ。ロープがその先で複雑な回路になっているかどうかは知らないんだけど、とにかくそれは一本なんだ。僕にとっては」
僕はギターの一弦を解放で鳴らした。
「でも、どうしてそう思ったのか、よく分からないんだ。ギターを弾いていて、そう感じたんだけど、でも、僕は何だか怖くなって……」
と言って緋彩を見た。緋彩は僕を見ていた。彼女は何だかちょっとした悪ふざけを思わせるように笑っていて、僕の言葉の文末に自分の声を合わせるように、
「大丈夫だよ、入谷くん。魚のこと、分かると思う。でも……」
そして、右手の爪で頬を掻いてから、
「でもね、君の言うことは正しくない」
と少し窘めるように言った。
自分の心について語る時には、厳密さが少しでも欠けると、全て台無しになる、というのは緋彩の口癖だった。彼女が、そのことを僕の言葉に対して言うのは、何かアンフェアな気がしたのだけど、僕はギターを壁際に立てかけて、目を瞑ってから、
「僕は、歌が何かを教えてくれる、と思ったんだ。今の僕は、歌を素直に聴く受け皿みたいなものが無い。そうだな、さっきふと自分が空っぽになっててさ、そこに歌が流れていたんだ。……そのずーっと先の方で何か見えたはずだと思ったんだけど……、僕たちは巨大なお芝居の中にいるんじゃないんだ。数々の回り合う個性があってさ、そう、僕はコピーのことを考えていた、コピーと実物の関係なんて無いんだ、って。何かしらの原型なんて無いんだよ。イデアなんて無い。イデアなんて持ち出さなくても、ここに在るものだけで十分なんだ。ここにあるもので、全てだ。そういう感じがしたんだよ」
と言った。自分でも、脈絡が全然無い、と思ったのだけど。
緋彩を見ると、彼女はいつの間にか煙草をくわえて、壁際のプラスチックの椅子に、身体の片方を預けて、まるで、僕の話には気のないような表情をして、座っていた。僕が見ているのに気付くと、
「うん? 夢の話は終わり?」
と茶化すように言ったので、僕は腹が立ってきた。僕が何かを言おうとする前に、彼女は煙草を持っていない方の手を軽く上げて、僕を制止して、
「いや、分かるんだ。分かるんだけど、君がイデアなんて言うから、少し疲れちゃって。ごめんね。君が作り話を言おうとしているんじゃないことは分かるの。でも、ちょっと落ち着きなよ。君は不思議な夢を見ただけかもしれないよ。君は、ここにあるもので十分、と言いながら、一生懸命夢を思い出そうとしているみたいだよ。……まあ、そう怒らないで。君はね、いい? 現実にここにいる私に向かって、現実の在りかを説こうとしているんだよ。そんなことよりさ、一緒にギターを弾いて歌ってた方が百倍面白くて、現実的だと私は思うんだよ。ここに無いことの奇跡の話よりも、ここにあることの奇跡を喜んだ方がいいのよ。気分的にね」
と言って、首を二十度ほど傾げて、僕に向かって、にっこり笑った。僕は、何だか怒る気が無くなってしまって、彼女に笑い返した。


「言葉というものは詩になりかけると冷たい息を吐くときがあるね」
理沙は言った。


3.理沙
僕は不安を抱えていた。その不安は、薬の効能とは関わらない場所にある。眠ると夢を見る。水色の夢。小さな味がする。……まるで食べ物を口に入れたまま眠ってしまったかのような吐き気を感じて目が覚める。

理沙の住む15階建てのアパートメントの屋上からは、白い折り紙細工みたいな街並みとその向こうの煙突が見えて、僕たちの頭上では、果物みたいな形の雲が、ゆっくり動いていた。
「眩しさが消えない内に、死んでしまえたらいいのに。みんな愛おしく感じられて……私にとって、正しく私がいなくて」
理沙は掠れたような笑みを浮かべて、小さく呟いた。このところ、彼女はずっと死についての想念から離れられないみたいだった。僕に向かって、唐突に観念的な質問を投げかけてきて、僕がそれに答えられないでいると、何か僕に罪があるような目で、彼女は僕を見るのだった。「何故、これはこうしてあるの?」「何故、あるものはあり続けるの?」というような、何故も何も、そうなっているのだからどうしようも無いとしか答えようが無い質問を、彼女は繰り返した。
「どうにかしたいのじゃない。ただ、私は本当に信じられる何かが欲しいの」
と、彼女は困惑したように言うのだった。
理沙は、大事なものを抱えてきて、それを地面にまき散らす人のような動作をして、それからまた、空っぽになった手を胸の前に重ね合わせるような体勢に戻った。彼女の目の周りは涙で縁取られていて、そこに夢の名残のような虹色のラメがきらきらと輝いていた。
「生きるのは、完璧に生きることなのよ。遠くない死を自覚した人のように。本当に生きたい場所は、ここなのよ。私は、ここにいたいの。ここに辿り着けないの」
理沙は落ちていた石をひとつ拾うと、手の平を上に向けて、その石を軽く握った。
僕は屋上の端のベンチに座って、くすんだ人工芝の青に目を遣っていた。
理沙は軽く身を引いてから、僕の頭上あたりを目掛けて石を投げた。石は僕の後ろのフェンスを越えていった。僕は振り向かなかった。理沙は、脱力したように、スカートの裾をつまんで、二、三度はためかせてから、歩いてきて、僕から斜向かいの地面に座った。
屈んだ姿勢から、僕を見上げて、彼女は、
「私は消えてしまってもいいの。何がどうあってもいい」
と言って、唇の端に、凍った壁の花のような微笑を浮かべた。それから立ち上がり、向こうを向いて、何かを言った。
「何?」
と僕は訊いた。
「あのね、……ううん」
彼女は言い淀んだ。それから、素早くこちらを向いて、
「あのね、みんな、あるがまま、ってことにしたいんじゃないかな。みんな、とても感傷的じゃない? 狡いよ」
と言った。
屋上の世界には、僕たち以外誰も存在していなかった。雲の切れ目から、僕たちの上に陽が注いできた。僕は右手を唇に軽く当てて、
「ねえ、理沙、僕たちは随分、眠りから離れてしまっているとは思わないか? 多分ね、僕たちが目覚める場所は、ここじゃないんだよ。いや、僕たちの目覚めは、こんな風じゃなかったはずなんだよ」
と言った。
理沙は、二、三度、その場でくるくると回ると、僕を見て、
「そうね、眠れば。今から部屋に帰って、眠ってしまえば、きっと全ては正しくなる。きっと、全ては……」
と言い、溜め息を吐くように、ふっと笑うと、
「私は、多分大丈夫。大丈夫だよ。だって私には、君がいるものね」
と言った。
僕たちは、手を繋いで、下の階へと続く暗い階段を降りていき、理沙の部屋の前に辿り着いた。彼女は一瞬だけ僕の方を見て、それから、ドアを開けた。

僕では無いかも知れない(抄)


「どうせみんな死ぬんです」
 7は言った。ベッドの縁で足を組み替えて、それから目配せをしたので僕は灰皿に手を伸ばして、ベッド脇のテーブルに置いた。ラジオからは「スプーン・エイジ」というタイトルの黄色っぽいような、エレキギターを高音を多用した曲が溢れ出ていて、それに低いのに子供のような響きのある男の声が重なり、ディスク・ジョッキーが、「僕たちは一本のスプーンを舐め続けて、食べてしまった、それに時間は大してかかりませんでした」と憂鬱に吐き出すようなイントロダクションを付け加えていた。
「お金が儲かって嬉しいなら、お金を儲けましょう。でも嬉しくないんです。だから、本当は誰もお金なんて欲しくないんです。落ちていたら拾うような、反射的なものでしか」
 僕は、今日のコネクトはまだ済ませていなかったので、四時には部屋を出なくてはならなかった。壁に掛かった、緑の電光表示はまだ午前中を示していた。この時計は埋め込み式になっている上、耐火ガラスで表示板がガードされていて、週一の委員会による点検が義務づけられている。ポスターなどを時計の上に張ってその存在を隠そうとする寮生もいるが、僕は割にこの神経質なデジタル表記の点滅が気に入っていた。
 ラジオは四つ打ちの単調なテクノを流し始めていた。
「飽きるなんておかしいではありませんか」
 7はフィルター付きの煙草を灰皿のくすんだ笑顔に押しつけた。
「飽きずに飽き続けてると言い換えることも出来るけど」
「嫌ですね。私は飽きたくない。例えば、月が、もう地球の周りをただ回ってるなんてやめた、なんて本当は言いたがってるなんて思いますか? きっと月に意思があるとして、地球の周りを回っているのが、彼には最高なんですよ。いつまでも、いつまでも。絶対に飽きないくらい」
 7の足が、ビートに合わせて、微かに揺れている。僕は窓の透過率を少し上げて、活字が目に鮮やかに映るようにした。僕は、紙媒体の不可変性が好きだ。それに、目にも心地いい。
 7はクローゼットを開けて、奥の段ボール箱から瓶入りの炭酸水を一本取り出した。一瞬、振りかけて、おっと、という顔をした。まったく、二酸化炭素入りのただの水にお金をかける人間の神経は理解できない。買ったのは僕だが。
「こっちに冷えたのもあるよ。祖母ちゃんの時代を思い出すくらい冷たいの」
 7はそれには答えずに、炭酸水を一口飲み、うん、うん、と違う誰かに向かって頷いていた。
「どうせみんな死ぬんです。それなら私は私だけの場所で回り続けていたい。死んでもそれとは気付かないくらいに、夢中に。ずっと感じ続けていたいんです。死ぬのさえも気持ちいいと錯覚してしまえるくらいに。こちらから出向かなくても、見えるものなら向こうから見える筈なんです。だって、本当は私のいる場所は常に目に捉えられないくらい速く、速く、移動し続けているはずだし、だから、私が動いてそれで得られる加速度なんて無いに等しいんです。問題は、ただどうやって私の場所を見つけるか、それだけなんですけど」