夜と、月

あちこちに報知器が置かれていて、
街では大きな物語が流れている。

私はここにいないのに、
死体は道路に転がっていて、
それを避けて歩く限り私は存在しないと、
標識に書かれていて、
私はメモリスティックを口に咥えて
誰も読まないラノベ小説を運んでいるみたいだ、

(つまり、私は存在しない、)

死体の、無駄使いですよそんなのは、
つまり踵は、ヒールは、
死体を避けて渡る為に発達したもので、

紛い物に対するハイテンションみたいに、
発達した空気を肺腑に含みつつ、
はい、青い方どうぞ、って、
底知れない聖堂みたいな中を連れ立たれていって、
眩しすぎて、もはや星みたいな歌しか出ないのに、
浮く、

もはや街ではイアン・カーティスしか歌っていない、
迷いが背中に付いてくる
もはや優しさは適用されない、
社会科の見学みたいだ、
目を瞑るとベスト盤みたいだ、
路は続いていて、
月は照らない、
私はいない。

川辺

心の底を、流れる川で、
昨日は指を切ってあげた。

山は、あたたかいが、黒い。
しびれるような懐かしさは、ここでは
青い、青くて、くるまっている。

ギターは静かな楽器です、が
やや胴などは確かすぎるので、
譜面台には鉛筆で愛情の、
こぼれた文字が書き連ねられて。

流れる川の、すぐそばで、
私はなかなか歌い出さない。
あなたも物を言わない。
ギターもやや確かすぎるので。

弦を撫でると指を切ってあげた。

心の底の指先で、
血は、赤く、黒く、
溜め息のように静かに鳴った。

愛着心の余りある感情に、時計の枝を噛む、
キーボードは、固くて、かちゃかちゃしているのがいいです、
待って欲しい!、って、ビーカーの赤い目盛りに声を掛けるみたいに、
舐めていく感情に落とし舟の帆が立っていくし、
背中合わせに夕陽の魔法を詠み合っていれば、
私たちは物質という感情の副産物なんだって気が付くし、

みんな本質的には夜に住んでいるんだよ、海の底に、
愛情が私の夜に住み着けるかなんて分からないけれど、
理由なんて無く、泣く、浴槽の中にしかなくて、
(愛は技術じゃないよ)愛は死だよ、
死ぬときになれば分かるよ、雨の下で、おふとんのなかで
ヘッドホンの中で、私は、赤い屋根の下で、
ライフルをマニュアル照準モードにして、
死ぬときになれば分かるよ、って
空の果てへ、最後の冠水栓を、私は
今から撃ち放してやるつもりでいます、…

別離(朝)

バイバイ、夢の人たち、
私の呼吸器は舟のように傾いでいる、
稀に対応する機首があっても、
理性だけが切れ切れに垂直で、

歴程に鳴る日ずく毎、
夢に似し、且つはまた、
柔軟な寝息に、
箱舟の薹が立つ、囲炉裏の色に、

バイバイ、聞こえない舍密たち、
喉奥で故郷が鳴る、
昼顔の色に、青色に、
気管は透る、薄明の音、

秧鶏の色は、策分は、
定期の果てに、揺りませぬ、

バイバイ、バイバイ、雨傘の音、
腕をくぐりて、お休みなされ……

(刹那の系累、
 青く、青く、枝垂れ行く……)

氷が水に変わる場所

1.僕
理沙は冷たい拡がりを纏っているみたいだった。

関わり合わない限り人間同士は、いつまで経っても、別々の宇宙人としての、遠い、遠い隣人同士なのだと思う。一度人と深く関わり合う決心をしてしまったら、広漠な世界へと続くはずだった自分の部屋のドアは、個人的な誰かへと続く、生活のためのドアとなり、自分がそれまで漠然と所有していた宇宙、少なくとも身近な可能性としての宇宙という概念は、僕の中から意図的に放棄されてしまう。或いは、最初から無かったことになってしまう。
いや、違う。僕は対人用のドアを入念に作り上げて、自分に元からあったドアを塗り固めてしまったんだと思う。宇宙へと開くはずだったドアがあるとすれば、それは完全に消失したりしない。でも、長いこと自分が対人用のドアを使い続けているな、と感じると、僕は時々、自分がここにいないような、間違った人格を所有し続けているような気になってくる。そして、その居心地の悪さ自体を自己の属性として、何が何でも認識し、受け容れなければならないような気になってくる。居心地の悪さを抱いたままで、周囲を見渡せば、誰を見ても誰かのための取って置きの笑顔を永久に保存してしまっているかのように見える。誰もが、誰に本当の笑いを向けたらいいか分からず、全ての人に平等に向けられた笑みの下で、自己喪失の不安に怯えているみたいに見える。

僕は罪深い存在だ。

僕は僕の中に入り、宇宙に向かって自分を開く。理沙がいつもそうしているように。僕たちは、当たり前の宇宙にいて、目を瞑ったまま起きていて、会話している。そして会話の中で僕たちは、ここでしかないこの場所に存在している、と確かに感じられる。


僕は赤い物を身に着けるのが好きだ。自分の居場所を見失わずに済むから。

「歌の中に雲が降りてくるの、それを、ピン留めするように、ギターを弾くの」
理沙は言った。


卑屈さを感じない、高い、高い空。それは目を瞑った時にだけ、僕には見える。

緋彩は唇の端を少し歪めるようにして、上下の犬歯で軽く下唇を噛んでいた。血の気が抜けたようになっている唇の、そこだけが赤くなっていた。水のように聞こえる緋彩のギターの音は、時に雨のように、僕の鼓膜に降る。彼女の弾く音は、空間の色を分散させているみたいだった。
理沙は時々、明確に自分を緋彩であると認識する。彼女にとっての一番の願望は、自分の中で、自分ではない自分に出会い、そしてそれ自身になることだった。

彼女はいつも「何かが足りない」と言っていた。
彼女の憎悪は彼女自身に向けられていた。想像でしか汲むことの出来ない地下水を思い、彼女は焦り、激しい渇きを覚える。
彼女からは細かい磁石の混じった、冷たい水のような匂いがすると思った。でも僕はそのことを理沙に言わなかった。


理沙は紫色の唇に笑みを浮かべていた。暗鬱を示そうとする、いくらか作為的な愛想笑い。部屋には彼女以外は誰もいない。彼女は数日前から睡眠薬の備蓄を切らしていた。市販の鎮咳剤と、ネットで購入したアミノ酸サプリメントのボトルが机の上に置かれていた。音楽は彼女に恐怖をもたらした。音に浸るには、彼女は自分が無防備すぎると感じた。窓の外で鳥が鳴いている。その鳴き声が彼女には、まるで彼女を非難するような、細長い針で出来た音のように聞こえる。彼女はアミノ酸の白いカプセルを四錠手の平に取り、新聞写真みたいに灰色に見えるグラスの中の水で飲み干す。水とグラスの境目がほとんど分からない。それから鎮咳剤を、正確に十錠……いつの間に中身がこんなに減ったのだろうか?……飲む。薬はすぐに頭に回り始め、彼女は額の奥に、赤いような、鈍い痛みを覚える。
潰れた箱から、煙草を一本取り出して、口に咥える。そのまま、火を着けないで、身体を捻って、立てかけていたエレキギターを手に取り、ピックを持って、アンプの電源は入れずに、いくつかのコードを弾き始める。知らない内に彼女は『アンダー・ザ・ブリッジ』のリフを弾いていた。壊れてしまいそうなバランスの上で光を放っている曲だ、と彼女は思う。それから、彼女は『グレイス』を弾く。外で人の声がする。彼女はギターを、さっきよりは素早い動作でスタンドに置き、赤い金属製のライターで湿りかけた煙草に火を着け、それからヘッドホンを着ける。彼女は真剣な、悲しいような眼付きで煙越しの壁を眺める。
煙草の火を、半分くらいのところで丁寧にもみ消して、目を瞑る。しかしすぐに目を開き、口の片方だけで笑う。机の上の文庫本の角を意味もなく親指で撫で、それから水を一口飲む。「何が信じられる?」彼女は、自分でも殆ど意識していないのだろう、小さな声で呟く。


2.緋彩
「魅入られたみたいな顔して、まるで戦争でも起こるみたいじゃない?」
緋彩は僕に言った。
僕はテレキャスターを抱えたまま、右手の人差し指を軽く唇に当てて、しばらくの間放心していたらしい。弁解するように、
「透明な魚のことを考えていたんだ」
と言った。緋彩は「ふうん」と気が無さそうに応えた。僕は続けて、
「右目が左目の世界を見るんだ。左目が右目の世界を見てね。つまりその魚は体内を見ている訳なんだ。それにも関わらずちゃんと外の景色も見えている。でも魚は『これは僕の中だ』って思い込んでいるんだ。そういう、絶望的なこと」
と言った。緋彩は再度、「ふうん」と言った。僕は緋彩の方を一度見てから、また視線を壁に戻して、
「それで、その魚は歌を歌うんだ。ミとかラとか、緑色や赤色の声で。そうすると歌の行く先が絶え間なく魚の内面になるんだ。それでね、魚の歌を聴く人は、みんな魚の内面になってしまうんだよ。そういうことを考えてた。魚というのはギターのことなんだけど」
僕が言うと、緋彩は少し俯いて、小さく笑った。僕が言ったことに対して、というよりは、僕の真面目な口調に対して、という感じの笑いだった。彼女は少し身構えるように、両腕で身体を抱くようにして、
「たいへん。君のテレキャスター君が、窒息しないようにしないと」
と上目遣いになって言った。
僕は「そう、そうなんだ」と言いながら、また右手を唇に当てて、左手でギターのネックを軽く叩いた。月の裏側をノックするみたいな音がした。取り留めの無い何かが浮かびかけては消えていく。
「ねえ、こうも思うんだよ。一匹の魚は全ての魚なんだ。みんな透明なんだよ。僕たちはみんな空を飛ぶ島国みたいなものでね、それぞれの島がぐるぐるひとつの方向に飛びながら、巨大な一匹の魚をロープで引っ張っているんだ。ところが魚の方から見ると、ひとつひとつの島は小さな魚なんだ。全体として、群れとしては正しいんだよ。大きな魚から見た小さな魚の一匹が僕なんだけど、僕から見ると僕が中心にいるようにしか思えないんだ。僕はそのロープの方向を知りたいんだ。そう思った。正しい方向とは、歌なんだよ。ロープがその先で複雑な回路になっているかどうかは知らないんだけど、とにかくそれは一本なんだ。僕にとっては」
僕はギターの一弦を解放で鳴らした。
「でも、どうしてそう思ったのか、よく分からないんだ。ギターを弾いていて、そう感じたんだけど、でも、僕は何だか怖くなって……」
と言って緋彩を見た。緋彩は僕を見ていた。彼女は何だかちょっとした悪ふざけを思わせるように笑っていて、僕の言葉の文末に自分の声を合わせるように、
「大丈夫だよ、入谷くん。魚のこと、分かると思う。でも……」
そして、右手の爪で頬を掻いてから、
「でもね、君の言うことは正しくない」
と少し窘めるように言った。
自分の心について語る時には、厳密さが少しでも欠けると、全て台無しになる、というのは緋彩の口癖だった。彼女が、そのことを僕の言葉に対して言うのは、何かアンフェアな気がしたのだけど、僕はギターを壁際に立てかけて、目を瞑ってから、
「僕は、歌が何かを教えてくれる、と思ったんだ。今の僕は、歌を素直に聴く受け皿みたいなものが無い。そうだな、さっきふと自分が空っぽになっててさ、そこに歌が流れていたんだ。……そのずーっと先の方で何か見えたはずだと思ったんだけど……、僕たちは巨大なお芝居の中にいるんじゃないんだ。数々の回り合う個性があってさ、そう、僕はコピーのことを考えていた、コピーと実物の関係なんて無いんだ、って。何かしらの原型なんて無いんだよ。イデアなんて無い。イデアなんて持ち出さなくても、ここに在るものだけで十分なんだ。ここにあるもので、全てだ。そういう感じがしたんだよ」
と言った。自分でも、脈絡が全然無い、と思ったのだけど。
緋彩を見ると、彼女はいつの間にか煙草をくわえて、壁際のプラスチックの椅子に、身体の片方を預けて、まるで、僕の話には気のないような表情をして、座っていた。僕が見ているのに気付くと、
「うん? 夢の話は終わり?」
と茶化すように言ったので、僕は腹が立ってきた。僕が何かを言おうとする前に、彼女は煙草を持っていない方の手を軽く上げて、僕を制止して、
「いや、分かるんだ。分かるんだけど、君がイデアなんて言うから、少し疲れちゃって。ごめんね。君が作り話を言おうとしているんじゃないことは分かるの。でも、ちょっと落ち着きなよ。君は不思議な夢を見ただけかもしれないよ。君は、ここにあるもので十分、と言いながら、一生懸命夢を思い出そうとしているみたいだよ。……まあ、そう怒らないで。君はね、いい? 現実にここにいる私に向かって、現実の在りかを説こうとしているんだよ。そんなことよりさ、一緒にギターを弾いて歌ってた方が百倍面白くて、現実的だと私は思うんだよ。ここに無いことの奇跡の話よりも、ここにあることの奇跡を喜んだ方がいいのよ。気分的にね」
と言って、首を二十度ほど傾げて、僕に向かって、にっこり笑った。僕は、何だか怒る気が無くなってしまって、彼女に笑い返した。


「言葉というものは詩になりかけると冷たい息を吐くときがあるね」
理沙は言った。


3.理沙
僕は不安を抱えていた。その不安は、薬の効能とは関わらない場所にある。眠ると夢を見る。水色の夢。小さな味がする。……まるで食べ物を口に入れたまま眠ってしまったかのような吐き気を感じて目が覚める。

理沙の住む15階建てのアパートメントの屋上からは、白い折り紙細工みたいな街並みとその向こうの煙突が見えて、僕たちの頭上では、果物みたいな形の雲が、ゆっくり動いていた。
「眩しさが消えない内に、死んでしまえたらいいのに。みんな愛おしく感じられて……私にとって、正しく私がいなくて」
理沙は掠れたような笑みを浮かべて、小さく呟いた。このところ、彼女はずっと死についての想念から離れられないみたいだった。僕に向かって、唐突に観念的な質問を投げかけてきて、僕がそれに答えられないでいると、何か僕に罪があるような目で、彼女は僕を見るのだった。「何故、これはこうしてあるの?」「何故、あるものはあり続けるの?」というような、何故も何も、そうなっているのだからどうしようも無いとしか答えようが無い質問を、彼女は繰り返した。
「どうにかしたいのじゃない。ただ、私は本当に信じられる何かが欲しいの」
と、彼女は困惑したように言うのだった。
理沙は、大事なものを抱えてきて、それを地面にまき散らす人のような動作をして、それからまた、空っぽになった手を胸の前に重ね合わせるような体勢に戻った。彼女の目の周りは涙で縁取られていて、そこに夢の名残のような虹色のラメがきらきらと輝いていた。
「生きるのは、完璧に生きることなのよ。遠くない死を自覚した人のように。本当に生きたい場所は、ここなのよ。私は、ここにいたいの。ここに辿り着けないの」
理沙は落ちていた石をひとつ拾うと、手の平を上に向けて、その石を軽く握った。
僕は屋上の端のベンチに座って、くすんだ人工芝の青に目を遣っていた。
理沙は軽く身を引いてから、僕の頭上あたりを目掛けて石を投げた。石は僕の後ろのフェンスを越えていった。僕は振り向かなかった。理沙は、脱力したように、スカートの裾をつまんで、二、三度はためかせてから、歩いてきて、僕から斜向かいの地面に座った。
屈んだ姿勢から、僕を見上げて、彼女は、
「私は消えてしまってもいいの。何がどうあってもいい」
と言って、唇の端に、凍った壁の花のような微笑を浮かべた。それから立ち上がり、向こうを向いて、何かを言った。
「何?」
と僕は訊いた。
「あのね、……ううん」
彼女は言い淀んだ。それから、素早くこちらを向いて、
「あのね、みんな、あるがまま、ってことにしたいんじゃないかな。みんな、とても感傷的じゃない? 狡いよ」
と言った。
屋上の世界には、僕たち以外誰も存在していなかった。雲の切れ目から、僕たちの上に陽が注いできた。僕は右手を唇に軽く当てて、
「ねえ、理沙、僕たちは随分、眠りから離れてしまっているとは思わないか? 多分ね、僕たちが目覚める場所は、ここじゃないんだよ。いや、僕たちの目覚めは、こんな風じゃなかったはずなんだよ」
と言った。
理沙は、二、三度、その場でくるくると回ると、僕を見て、
「そうね、眠れば。今から部屋に帰って、眠ってしまえば、きっと全ては正しくなる。きっと、全ては……」
と言い、溜め息を吐くように、ふっと笑うと、
「私は、多分大丈夫。大丈夫だよ。だって私には、君がいるものね」
と言った。
僕たちは、手を繋いで、下の階へと続く暗い階段を降りていき、理沙の部屋の前に辿り着いた。彼女は一瞬だけ僕の方を見て、それから、ドアを開けた。

僕では無いかも知れない(抄)


「どうせみんな死ぬんです」
 7は言った。ベッドの縁で足を組み替えて、それから目配せをしたので僕は灰皿に手を伸ばして、ベッド脇のテーブルに置いた。ラジオからは「スプーン・エイジ」というタイトルの黄色っぽいような、エレキギターを高音を多用した曲が溢れ出ていて、それに低いのに子供のような響きのある男の声が重なり、ディスク・ジョッキーが、「僕たちは一本のスプーンを舐め続けて、食べてしまった、それに時間は大してかかりませんでした」と憂鬱に吐き出すようなイントロダクションを付け加えていた。
「お金が儲かって嬉しいなら、お金を儲けましょう。でも嬉しくないんです。だから、本当は誰もお金なんて欲しくないんです。落ちていたら拾うような、反射的なものでしか」
 僕は、今日のコネクトはまだ済ませていなかったので、四時には部屋を出なくてはならなかった。壁に掛かった、緑の電光表示はまだ午前中を示していた。この時計は埋め込み式になっている上、耐火ガラスで表示板がガードされていて、週一の委員会による点検が義務づけられている。ポスターなどを時計の上に張ってその存在を隠そうとする寮生もいるが、僕は割にこの神経質なデジタル表記の点滅が気に入っていた。
 ラジオは四つ打ちの単調なテクノを流し始めていた。
「飽きるなんておかしいではありませんか」
 7はフィルター付きの煙草を灰皿のくすんだ笑顔に押しつけた。
「飽きずに飽き続けてると言い換えることも出来るけど」
「嫌ですね。私は飽きたくない。例えば、月が、もう地球の周りをただ回ってるなんてやめた、なんて本当は言いたがってるなんて思いますか? きっと月に意思があるとして、地球の周りを回っているのが、彼には最高なんですよ。いつまでも、いつまでも。絶対に飽きないくらい」
 7の足が、ビートに合わせて、微かに揺れている。僕は窓の透過率を少し上げて、活字が目に鮮やかに映るようにした。僕は、紙媒体の不可変性が好きだ。それに、目にも心地いい。
 7はクローゼットを開けて、奥の段ボール箱から瓶入りの炭酸水を一本取り出した。一瞬、振りかけて、おっと、という顔をした。まったく、二酸化炭素入りのただの水にお金をかける人間の神経は理解できない。買ったのは僕だが。
「こっちに冷えたのもあるよ。祖母ちゃんの時代を思い出すくらい冷たいの」
 7はそれには答えずに、炭酸水を一口飲み、うん、うん、と違う誰かに向かって頷いていた。
「どうせみんな死ぬんです。それなら私は私だけの場所で回り続けていたい。死んでもそれとは気付かないくらいに、夢中に。ずっと感じ続けていたいんです。死ぬのさえも気持ちいいと錯覚してしまえるくらいに。こちらから出向かなくても、見えるものなら向こうから見える筈なんです。だって、本当は私のいる場所は常に目に捉えられないくらい速く、速く、移動し続けているはずだし、だから、私が動いてそれで得られる加速度なんて無いに等しいんです。問題は、ただどうやって私の場所を見つけるか、それだけなんですけど」

雨の日

 喫煙所には灰皿が二つ置かれているのに、地面には吸い殻が散らばっていた。大分前から管理されてないらしく、灰皿は吸い殻でいっぱいになっていた。そこは展望台のようになっていて、天井がなく、見るべきものと言えば空くらいなのに、今は細かい雨が降っていて、暗い空と、どこまでも続く杉林に、添え物程度の海が見えた。透子と僕の他には、十三歳くらいの少年がいて、足や手を落ち着きなく動かしながら、喫煙所の隅のベンチで一心に空を眺めているようにも見えたし、ただ何もかもから目を逸らしているようにも見えた。透子も僕も、誘われるようにして、煙草も吸わずに、空を見ていたけれど、僕には面白いものなんて何もあるようには見えなかった。帰ろうか、と透子を見ると、どういう訳か彼女は泣いていた。或いはただ涙を流していた。
 僕が、「どうかしたの?」という顔で彼女を見ていると、透子は、
「雨」
と答えた。
 それから何かを誤魔化すみたいに急いで少し笑って、
「見て、ねえ、雨。今日は風がなくて、あの黒い雲から、一直線にここに雨が落ちてくるの。高い、高い、高い、高いところから。一万メートルくらいの高さから、ここへ。一直線にね。望むなら、いつまでも、雨を浴びていられる、雨を、私が雨を呼ぶなら、いつまでも、いつまでも、雨は降り続ける」
 そう言って、「私はとてもすごいと思うけど、あなたには分からないかもしれない」という顔で僕を凝視するので、僕は懸命に「とても、すごいと思う」と言う顔をしようと努力した。
 隅のベンチで、僕たちには無関心そうに足を組み替えたり、靴底を地面に擦り付けたりしていた少年が、ふと動きを止めて、振り向いて、
「雨、もっと降るといいですね」
と言って、透子に向かって笑った。彼はもうそろそろ変声期に近づいている少年特有の、ざらついてはいるけれど、よく通る声をしていた。透子は何も言わずに、嬉しそうに二回頷いた。少年は、僕と透子の間に割り込んで、自分の話を続けても構わないか、確かめるように、短すぎず、長すぎない時間、沈黙を保ったあと、僕たちから無言の了承を得たと感じたのか(実際に僕が「続けていいよ」と無言で示した微かな雰囲気が、彼にはあからさまなものとして伝わったという感覚を、僕は感じた)僕と透子の二人に向かって、先ほどよりも安心したような声で、
「僕は雨の日が好きです。雨の音も。雨のにおいも。くだらないことも嫌なことも、綺麗なものも素晴らしいものも、みんな水に包まれます。今日は時間のない雨の日です。僕は雨の日のたびに、降り止まなければいい、と思います。そうして何日も、何十日も雨は降り続き、この近くでは、人間が決めた基準の一切が水没するんです。その内に」
 僕は、何のことか分からなかったけれど、透子は、
「そうなるといいね。その内に」
と言った。
 少年は透子の同意に勢いづいたのか、立ち上がって僕たちのもとへ早足で歩いてきたので、僕たちは三人で三角形に立って話すことになった。と言っても話しているのは、殆ど少年ひとりで、彼は僕や透子や、まるでそこににいない誰かに身を乗り出したりさえして、多分に妄想的な終末論を熱っぽく語り、僕たちはただ話の途切れ間に、相づちを打つだけだった。少年の話しぶりは、彼の孤独な頭でごちゃまぜになっていることが、論理と妄想と思い込みの区別なく、多感な頭からそのまま飛び出して来るみたいだった。
「もう、すぐですよ。基準なんて決めるから、基準が絶対になるんです。人間が自然界に対して行ってきたことは、何もかも(いや、「殆どは」と言い換えます)、宇宙から微生物にまで、ただ物差しを当ててきただけです。世界に雨が降り続けて、昼も夜も無くなれば、時間は意味を成さなくなりますし、水没した世界の中で、暗闇の中で、人間にはよすががなくなるでしょう。暗闇は光を理解しないし、光には長さがありません。目を瞑らなくてはなりません。目の奥に光を見なければならないんです。その内……ここは、この世界は全て、水の底に沈みます。僕たちの殆どは、滅びるでしょう。滅んだ世界で、少ないひと達が、ただその日(「その日」なんてものがあればですが)生きることを生きるでしょう。そこにはまた喜びも、悲しみもあって……」
 彼は突然悲しそうに顔を伏せて、急に僕たちの存在も忘れてしまったみたいに、微動だにせず立ちすくんでいたけれど、やがて、下を向いたまま、陰鬱な口調で、
「……そこにも、また、雨が降るでしょう。いつまでも、いつまでも。この、ここの、今と同じ雨が。いつまでも、降り続けるでしょう。だから、僕は、雨が好きなんです」
 僕はまっすぐ頭上を見上げた。雨は宇宙の彼方から、僕の眼球へと一直線に落ちてきた。雨は僕の目に染み、眼球の裏側にまで染み渡り、そこで赤い、青い、虹色の光の溜まりを作った。
 透子は、巻いていたストールがほどけかかり、雨の色に滲んで、彼女自身がまるで、雨の一部になってしまったかのように、浮かび上がりそうな微笑みを浮かべて、まるで自然な体勢で斜め上を見上げ、全身に雨を受けていた。
 雨足は、もう大降りと言ってもいいくらいに強くなっていた。このままあと一日も雨が続けば、本当に地上は、遠くに見える海の彼方までも水没してしまうんじゃないか、と思えるくらいに。一年でも、二年でも降り続けばいい、高い、高い、高い、高いところから。一万メートルと言わず、無限の遠い高さから、一直線に、僕のもとへ、僕たちのもとへ、降り注ぐんだ。全てを水の底へ、時間の無い世界へ、昼も夜も無い世界へ、僕を、僕たちを誘ってくれればいい。

(僕は多分、彼は病気なのだろう(病院に行っているのだろう)と思った。そして、病院に行くたびに、「彼は自分自身を客観視することが出来ますし、言語能力その他の知能も優れているから、(とこれは彼の親に言うのだけど)心配することはありませんよ」なんて言われるのだろう、昔の僕みたいに、と思った。問題はそこじゃないのに。問題は、「どうしてあなた達は何事もないみたいに笑って暮らせているのですか?」ということなのに。それが分からなければ、知能がどうだろうと、社会的スキルがあろうとなかろうと、関係ない。生きていることが、当たり前に生きていることが、全然、ぜんぜん、分からないんだから。僕には、世界が分からない。僕は透子に会って、それからは透子が世界の全てだ。世界とは本来それが全てで、誰かを愛することだけが世界で、客観的な真実の世界なんて、そんなもの、存在しない。誰かと手を繋ぐこと、それは計量とも、客観的真実とも関係ない、ただ、愛情の温かみのある、完璧な真実なんだ。)