氷が水に変わる場所

1.僕
理沙は冷たい拡がりを纏っているみたいだった。

関わり合わない限り人間同士は、いつまで経っても、別々の宇宙人としての、遠い、遠い隣人同士なのだと思う。一度人と深く関わり合う決心をしてしまったら、広漠な世界へと続くはずだった自分の部屋のドアは、個人的な誰かへと続く、生活のためのドアとなり、自分がそれまで漠然と所有していた宇宙、少なくとも身近な可能性としての宇宙という概念は、僕の中から意図的に放棄されてしまう。或いは、最初から無かったことになってしまう。
いや、違う。僕は対人用のドアを入念に作り上げて、自分に元からあったドアを塗り固めてしまったんだと思う。宇宙へと開くはずだったドアがあるとすれば、それは完全に消失したりしない。でも、長いこと自分が対人用のドアを使い続けているな、と感じると、僕は時々、自分がここにいないような、間違った人格を所有し続けているような気になってくる。そして、その居心地の悪さ自体を自己の属性として、何が何でも認識し、受け容れなければならないような気になってくる。居心地の悪さを抱いたままで、周囲を見渡せば、誰を見ても誰かのための取って置きの笑顔を永久に保存してしまっているかのように見える。誰もが、誰に本当の笑いを向けたらいいか分からず、全ての人に平等に向けられた笑みの下で、自己喪失の不安に怯えているみたいに見える。

僕は罪深い存在だ。

僕は僕の中に入り、宇宙に向かって自分を開く。理沙がいつもそうしているように。僕たちは、当たり前の宇宙にいて、目を瞑ったまま起きていて、会話している。そして会話の中で僕たちは、ここでしかないこの場所に存在している、と確かに感じられる。


僕は赤い物を身に着けるのが好きだ。自分の居場所を見失わずに済むから。

「歌の中に雲が降りてくるの、それを、ピン留めするように、ギターを弾くの」
理沙は言った。


卑屈さを感じない、高い、高い空。それは目を瞑った時にだけ、僕には見える。

緋彩は唇の端を少し歪めるようにして、上下の犬歯で軽く下唇を噛んでいた。血の気が抜けたようになっている唇の、そこだけが赤くなっていた。水のように聞こえる緋彩のギターの音は、時に雨のように、僕の鼓膜に降る。彼女の弾く音は、空間の色を分散させているみたいだった。
理沙は時々、明確に自分を緋彩であると認識する。彼女にとっての一番の願望は、自分の中で、自分ではない自分に出会い、そしてそれ自身になることだった。

彼女はいつも「何かが足りない」と言っていた。
彼女の憎悪は彼女自身に向けられていた。想像でしか汲むことの出来ない地下水を思い、彼女は焦り、激しい渇きを覚える。
彼女からは細かい磁石の混じった、冷たい水のような匂いがすると思った。でも僕はそのことを理沙に言わなかった。


理沙は紫色の唇に笑みを浮かべていた。暗鬱を示そうとする、いくらか作為的な愛想笑い。部屋には彼女以外は誰もいない。彼女は数日前から睡眠薬の備蓄を切らしていた。市販の鎮咳剤と、ネットで購入したアミノ酸サプリメントのボトルが机の上に置かれていた。音楽は彼女に恐怖をもたらした。音に浸るには、彼女は自分が無防備すぎると感じた。窓の外で鳥が鳴いている。その鳴き声が彼女には、まるで彼女を非難するような、細長い針で出来た音のように聞こえる。彼女はアミノ酸の白いカプセルを四錠手の平に取り、新聞写真みたいに灰色に見えるグラスの中の水で飲み干す。水とグラスの境目がほとんど分からない。それから鎮咳剤を、正確に十錠……いつの間に中身がこんなに減ったのだろうか?……飲む。薬はすぐに頭に回り始め、彼女は額の奥に、赤いような、鈍い痛みを覚える。
潰れた箱から、煙草を一本取り出して、口に咥える。そのまま、火を着けないで、身体を捻って、立てかけていたエレキギターを手に取り、ピックを持って、アンプの電源は入れずに、いくつかのコードを弾き始める。知らない内に彼女は『アンダー・ザ・ブリッジ』のリフを弾いていた。壊れてしまいそうなバランスの上で光を放っている曲だ、と彼女は思う。それから、彼女は『グレイス』を弾く。外で人の声がする。彼女はギターを、さっきよりは素早い動作でスタンドに置き、赤い金属製のライターで湿りかけた煙草に火を着け、それからヘッドホンを着ける。彼女は真剣な、悲しいような眼付きで煙越しの壁を眺める。
煙草の火を、半分くらいのところで丁寧にもみ消して、目を瞑る。しかしすぐに目を開き、口の片方だけで笑う。机の上の文庫本の角を意味もなく親指で撫で、それから水を一口飲む。「何が信じられる?」彼女は、自分でも殆ど意識していないのだろう、小さな声で呟く。


2.緋彩
「魅入られたみたいな顔して、まるで戦争でも起こるみたいじゃない?」
緋彩は僕に言った。
僕はテレキャスターを抱えたまま、右手の人差し指を軽く唇に当てて、しばらくの間放心していたらしい。弁解するように、
「透明な魚のことを考えていたんだ」
と言った。緋彩は「ふうん」と気が無さそうに応えた。僕は続けて、
「右目が左目の世界を見るんだ。左目が右目の世界を見てね。つまりその魚は体内を見ている訳なんだ。それにも関わらずちゃんと外の景色も見えている。でも魚は『これは僕の中だ』って思い込んでいるんだ。そういう、絶望的なこと」
と言った。緋彩は再度、「ふうん」と言った。僕は緋彩の方を一度見てから、また視線を壁に戻して、
「それで、その魚は歌を歌うんだ。ミとかラとか、緑色や赤色の声で。そうすると歌の行く先が絶え間なく魚の内面になるんだ。それでね、魚の歌を聴く人は、みんな魚の内面になってしまうんだよ。そういうことを考えてた。魚というのはギターのことなんだけど」
僕が言うと、緋彩は少し俯いて、小さく笑った。僕が言ったことに対して、というよりは、僕の真面目な口調に対して、という感じの笑いだった。彼女は少し身構えるように、両腕で身体を抱くようにして、
「たいへん。君のテレキャスター君が、窒息しないようにしないと」
と上目遣いになって言った。
僕は「そう、そうなんだ」と言いながら、また右手を唇に当てて、左手でギターのネックを軽く叩いた。月の裏側をノックするみたいな音がした。取り留めの無い何かが浮かびかけては消えていく。
「ねえ、こうも思うんだよ。一匹の魚は全ての魚なんだ。みんな透明なんだよ。僕たちはみんな空を飛ぶ島国みたいなものでね、それぞれの島がぐるぐるひとつの方向に飛びながら、巨大な一匹の魚をロープで引っ張っているんだ。ところが魚の方から見ると、ひとつひとつの島は小さな魚なんだ。全体として、群れとしては正しいんだよ。大きな魚から見た小さな魚の一匹が僕なんだけど、僕から見ると僕が中心にいるようにしか思えないんだ。僕はそのロープの方向を知りたいんだ。そう思った。正しい方向とは、歌なんだよ。ロープがその先で複雑な回路になっているかどうかは知らないんだけど、とにかくそれは一本なんだ。僕にとっては」
僕はギターの一弦を解放で鳴らした。
「でも、どうしてそう思ったのか、よく分からないんだ。ギターを弾いていて、そう感じたんだけど、でも、僕は何だか怖くなって……」
と言って緋彩を見た。緋彩は僕を見ていた。彼女は何だかちょっとした悪ふざけを思わせるように笑っていて、僕の言葉の文末に自分の声を合わせるように、
「大丈夫だよ、入谷くん。魚のこと、分かると思う。でも……」
そして、右手の爪で頬を掻いてから、
「でもね、君の言うことは正しくない」
と少し窘めるように言った。
自分の心について語る時には、厳密さが少しでも欠けると、全て台無しになる、というのは緋彩の口癖だった。彼女が、そのことを僕の言葉に対して言うのは、何かアンフェアな気がしたのだけど、僕はギターを壁際に立てかけて、目を瞑ってから、
「僕は、歌が何かを教えてくれる、と思ったんだ。今の僕は、歌を素直に聴く受け皿みたいなものが無い。そうだな、さっきふと自分が空っぽになっててさ、そこに歌が流れていたんだ。……そのずーっと先の方で何か見えたはずだと思ったんだけど……、僕たちは巨大なお芝居の中にいるんじゃないんだ。数々の回り合う個性があってさ、そう、僕はコピーのことを考えていた、コピーと実物の関係なんて無いんだ、って。何かしらの原型なんて無いんだよ。イデアなんて無い。イデアなんて持ち出さなくても、ここに在るものだけで十分なんだ。ここにあるもので、全てだ。そういう感じがしたんだよ」
と言った。自分でも、脈絡が全然無い、と思ったのだけど。
緋彩を見ると、彼女はいつの間にか煙草をくわえて、壁際のプラスチックの椅子に、身体の片方を預けて、まるで、僕の話には気のないような表情をして、座っていた。僕が見ているのに気付くと、
「うん? 夢の話は終わり?」
と茶化すように言ったので、僕は腹が立ってきた。僕が何かを言おうとする前に、彼女は煙草を持っていない方の手を軽く上げて、僕を制止して、
「いや、分かるんだ。分かるんだけど、君がイデアなんて言うから、少し疲れちゃって。ごめんね。君が作り話を言おうとしているんじゃないことは分かるの。でも、ちょっと落ち着きなよ。君は不思議な夢を見ただけかもしれないよ。君は、ここにあるもので十分、と言いながら、一生懸命夢を思い出そうとしているみたいだよ。……まあ、そう怒らないで。君はね、いい? 現実にここにいる私に向かって、現実の在りかを説こうとしているんだよ。そんなことよりさ、一緒にギターを弾いて歌ってた方が百倍面白くて、現実的だと私は思うんだよ。ここに無いことの奇跡の話よりも、ここにあることの奇跡を喜んだ方がいいのよ。気分的にね」
と言って、首を二十度ほど傾げて、僕に向かって、にっこり笑った。僕は、何だか怒る気が無くなってしまって、彼女に笑い返した。


「言葉というものは詩になりかけると冷たい息を吐くときがあるね」
理沙は言った。


3.理沙
僕は不安を抱えていた。その不安は、薬の効能とは関わらない場所にある。眠ると夢を見る。水色の夢。小さな味がする。……まるで食べ物を口に入れたまま眠ってしまったかのような吐き気を感じて目が覚める。

理沙の住む15階建てのアパートメントの屋上からは、白い折り紙細工みたいな街並みとその向こうの煙突が見えて、僕たちの頭上では、果物みたいな形の雲が、ゆっくり動いていた。
「眩しさが消えない内に、死んでしまえたらいいのに。みんな愛おしく感じられて……私にとって、正しく私がいなくて」
理沙は掠れたような笑みを浮かべて、小さく呟いた。このところ、彼女はずっと死についての想念から離れられないみたいだった。僕に向かって、唐突に観念的な質問を投げかけてきて、僕がそれに答えられないでいると、何か僕に罪があるような目で、彼女は僕を見るのだった。「何故、これはこうしてあるの?」「何故、あるものはあり続けるの?」というような、何故も何も、そうなっているのだからどうしようも無いとしか答えようが無い質問を、彼女は繰り返した。
「どうにかしたいのじゃない。ただ、私は本当に信じられる何かが欲しいの」
と、彼女は困惑したように言うのだった。
理沙は、大事なものを抱えてきて、それを地面にまき散らす人のような動作をして、それからまた、空っぽになった手を胸の前に重ね合わせるような体勢に戻った。彼女の目の周りは涙で縁取られていて、そこに夢の名残のような虹色のラメがきらきらと輝いていた。
「生きるのは、完璧に生きることなのよ。遠くない死を自覚した人のように。本当に生きたい場所は、ここなのよ。私は、ここにいたいの。ここに辿り着けないの」
理沙は落ちていた石をひとつ拾うと、手の平を上に向けて、その石を軽く握った。
僕は屋上の端のベンチに座って、くすんだ人工芝の青に目を遣っていた。
理沙は軽く身を引いてから、僕の頭上あたりを目掛けて石を投げた。石は僕の後ろのフェンスを越えていった。僕は振り向かなかった。理沙は、脱力したように、スカートの裾をつまんで、二、三度はためかせてから、歩いてきて、僕から斜向かいの地面に座った。
屈んだ姿勢から、僕を見上げて、彼女は、
「私は消えてしまってもいいの。何がどうあってもいい」
と言って、唇の端に、凍った壁の花のような微笑を浮かべた。それから立ち上がり、向こうを向いて、何かを言った。
「何?」
と僕は訊いた。
「あのね、……ううん」
彼女は言い淀んだ。それから、素早くこちらを向いて、
「あのね、みんな、あるがまま、ってことにしたいんじゃないかな。みんな、とても感傷的じゃない? 狡いよ」
と言った。
屋上の世界には、僕たち以外誰も存在していなかった。雲の切れ目から、僕たちの上に陽が注いできた。僕は右手を唇に軽く当てて、
「ねえ、理沙、僕たちは随分、眠りから離れてしまっているとは思わないか? 多分ね、僕たちが目覚める場所は、ここじゃないんだよ。いや、僕たちの目覚めは、こんな風じゃなかったはずなんだよ」
と言った。
理沙は、二、三度、その場でくるくると回ると、僕を見て、
「そうね、眠れば。今から部屋に帰って、眠ってしまえば、きっと全ては正しくなる。きっと、全ては……」
と言い、溜め息を吐くように、ふっと笑うと、
「私は、多分大丈夫。大丈夫だよ。だって私には、君がいるものね」
と言った。
僕たちは、手を繋いで、下の階へと続く暗い階段を降りていき、理沙の部屋の前に辿り着いた。彼女は一瞬だけ僕の方を見て、それから、ドアを開けた。